「どうしてる?」4月22日『王道も珍品も「ほとけの国の美術」展』という見出しの記事が掲載されました。『江戸時代の絵画を中心として、画家たちの制作の背景にあった「仏教」を切り口にさまざまな作品を集めた「ほとけの国の美術」展が東京都の府中市美術館で開かれている』ことを報じる記事です。『阿弥陀如来が浄土から二十五菩薩を供に従え、亡くなる人を迎えに来る様子を描いた来迎図』『釈迦如来と阿弥陀如来を中にして二十五菩薩と地蔵・竜樹菩薩~』『地獄道と等活・黒縄・衆合・大叫喚・叫喚・大焦熱・焦熱・阿鼻の8地獄を~』。子供に「○○って何?」と訊かれて、きちんと説明できる人がどれくらいいるのでしょうか。私も、「竜樹菩薩」という言葉は初めて目にしました。不勉強で恥ずかしいです。しかし私に限らず、上述のような「仏教」に関する知識を...あなたは知っている?
4月21日(日)、ラーメン鬼山で「豚ラーメン300g」(税込み980円)をいただきました。 ここは、元々「ラーメン鬼首」(本店)があったところで閉店に伴い、従業員の方が引継いで店名も変えて開店したらしい。 店の場所が東北医科薬科大学の近くで繁華街から離れていることもあってか、それとも、日曜日だからなのか分かりませんが、お昼時でも満席ではなく、かと言って、空席が目立つ分けでもなく、ほどよい入りで、居心地は良かったです。 さて、食事の「豚ラーメン」の方はというと、以前の店(鬼首)の頃と同じ味です。 ただ、スープの濃さが一定ではなく、どんぶりの底のスープが濃すぎました。 以前の店の頃も、スープの濃さ…
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その4)
「死中得活(死中に活を得る)」。この語句は禅を考えるうえで重要な契機を与えてくれる。このような語句が多く登場することは、禅が生死に渡ることを示す。
「反省」4月22日専修大教授武田徹氏が、『新聞報道における「語り」』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『疑問視するのは、「データや根拠を前面に出」さずに個人的経験の吐露に終始する記事だ。確かに一人称で記者が語ったり、取材相手に語らせたりする記事の中には情緒に流れ過ぎと思うものもある(略)個々人の思いが示されているに過ぎない「語り」は、他の証言や事実と照合させて検証されてこそ、客観的な事実に近づく(略)語りの有無それ自体が問題なのではない。報道の公共性を実現させる方向で、語りが使えているかが問われている』と書かれていました。私は連れ合いと、「最近、ある個人を取り上げて、延々とその人の体験や感想を垂れ流しているような記事が多いよね」と話していたところだったので、武田氏の指摘に全面的に共感...自分は「生の声」に偏り過ぎていたのかもしれない
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その3)
龍潭和尚は、徳山が仏の化身である老婆によって提起された「過去心・現在心・未来心」の公案を、徳山自身が体得できるよう、徳山の機微に合わせて接してやったのである。この徳山の説話は、禅における「わかる=悟る」の契機とその体験を垣間見させてくれる。
「早急に」4月19日『広がる「やさしい日本語」』という見出しの記事が掲載されました。『災害時、日本で暮らす外国人たちにも大切な情報を届けるための「やさしい日本語」を取り入れる科学館や美術館が増えている』ことの実態と背景を報じる記事です。記事では、『やさしい日本語は(略)簡単な言葉を短く、はっきり言いきるのが大切』『難しい敬語は使わず、「です」「ます」を崩さないことがポイント』などの解説とともに、実際の例が紹介されていました。「ここは家でした。家族が住んでいました」です。それまでは、「皇族の住宅でした~」と話していたそうです。皇族では日本語を母語とする子供でも「?」です。住宅も難しい言葉です。まして、日本語を母語とする成人に話す「この邸宅は皇族の方々がお住まいになっていらっしゃいました」では、絶対に通じませ...優しいor易しい
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その2)
この問答も傑作だ。「心」の問題を取り扱っている。「点心」と「点那箇心」がひっかけてあり機知にと富む問答になっているが、徳山にとっては、おばあさんの言葉は、「心」の問題を突き詰めてくる容赦のない問いとして迫ってきたであろう。
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